③【緩和ケアに関する考察その②】

 世の中も仕事も政治も文化も流行も何もいらない。いま必要なのは静かに豊かな気持ちでいられる時間。緩和ケアはその時間を1秒でも長く続く事に専念している。裏を返せば、最初に言ったアマゾンのライオンの首輪CMの制作評価はマイナス50点だが、エモーショナルな感覚では100点。よって結果トータル50点となる。
 緩和ケア同様に理屈にハマっていなくても、充分に効果は発揮している。対象となる人たちにだけ効果を示せばいい。医学の先にある緩和ケア、「なかなかやるな!」と感じたのです。

私と妻が吉川中央病院に来たのは20155月、妻は乳がんの再発で3年目の春だった。緩和ケアのスペシャリスト、篠原先生に会うために来た。週一回の診察では自宅介護ではもう限界にきていた。最初は様子見の入院、大部屋をお願いした。
病気に関しては全くの素人(がん難民)、しかも再発で先行きが全く見えないし、疼痛が過去最大になっていた。どんな治療や対応をしてくれるのか?はたまたいつ帰してもらえるのか?夫婦そろって不安100%な気持ちでやってきた。
幸い部屋に空きはあり、入院は一般病棟でも緩和ケア病棟でも可能と言われ、「いきなり緩和ケアの個室はちょっと」と大部屋にお願いした。
ひとりで静かに耐えるよりはある程度にぎやかな方がいい。ただとにかく具合は良くない。ひっきりなしに痛む身体に妻も辟易し、既に触るだけで痛むので自宅介護は困難になっていた。

普通の病気は病気を改善する為に投薬なり治療なり、対処する段取りに従うわけだけれど、がんのケアはいま出ている症状によってオーダーメイド対応。いまは痛みにパッチを当てて緩和するしかない。
痛いから眠れない。起きていると苦痛が辛い。かといってテレビで気を紛らわすこころの余裕はない。そうなると会話か好きな読書かおやつか。いずれにしてもいままで出会った事のない病状に妻本人も参っていた。

夏だったので暑いし冷房で肌寒い、床ずれしやすいって事もあり、下着での調整を優先したいと妻は訴えた。半袖、ノースリーブ、タンクトップ。右手が手術の後遺症(リンパ節切除のため、浮腫になり痛くて動かせない)なのでボタン留めはダメ。障害者用のベルクロ留めがいい。
半年前から生活はベッドの上で、四月頃から食事が変わった。固形物が食べられない。離乳食のように砕いたものや喉ごしよいものしか食べられず、痩せ細っているが、浮腫らの作用で見た目は膨らんでいる。いままで食事の不安はなかったのでこれには参った。首回りにがんは攻め込んでいるようで、咳をしたりすると苦しくて息ができない。だから食に関してどんどん臆病になっていた。
なかなか規定サイズの下着が合わず、買いに行くも着られるものがなく(メーカー在庫もないので取り寄せできない)、婦人服屋を転々しては毎日怒られる日々。病院食もなかなか合わず、日に日にストレスが溜まっていった。体調はいい時悪い時、波のように変わり、過去に出会った事のない不安定な状態での入院だった。

健康な時は自分の身体には無頓着、毎日仕事や家族との生活が中心とで気を配るのは風呂場で1日の汚れを洗い流す時くらい。でもいったんベッド暮らしが始まると外界とは遮断され、自分の身体を健康な状態に戻したいと願うだけになる。しかしそれが悪化するだけなら、どんなにそれは切ないだろう。なんでも身の回りの世話を依頼しなければならず、家族よりも仕事でやっている看護師に頼む方がまだ気楽。本人と家族にも溝は生まれた。精神的ストレスと体調不良ストレスは本人を弱らせていった。

SNSやメールはいつでもどこでもオンライン。しかし、やっぱりフェイストゥフェイスでの表情や仕草、微妙な変化を観察する事でしか満足には至らない。日に日に弱っていく妻に私は何一つできなかった。「何、見ているんだよ」とたびたび注意を受けたが、見ているだけしかなかった。
この入院でひとつだけ良かった事。それは家族全員が妻の存在の有り難みを認識出来、いままで世話になった事を感謝するようになった事。当たり前に普通の暮らしが出来ていた事は当たり前ではないと実感してくれた事。いわゆる家族の絆の確認が出来た事だ。

一般病棟の大部屋入院から2週間も経たず緩和ケア病棟の個室に入院した。いや入院を決めた時に思った事を言おう。助かりたいのか、いまを受け止めて最大限のことをするのか。助かりたいだけならもっと他の選択肢があったのだろう。メジャーな病院や名医と呼ばれる医師はいる。しかし今からその予約の最後尾に並んで果たして間に合うのだろうか?間に合うとはもちろん完治する事。間に合うなら間違いなくそれを選んだろうし、たとえ間に合わなくても【最善を尽くす】事には変わりない。

長年生きてきた中で何度となく訪れた【奇跡の出来事】は必ず最善を尽くした先にあり、ギリギリを越えて、意識朦朧とした後に思いがけない方向にそれは卵のように生まれ、その卵を育てるうちに過去の経験ではなかった出来事が発生し、あれよあれよとそれは成功に導いてくれた。
それはまるで【ジャックと豆の木】の金の卵のような話で、天空の城のニワトリは地上から見えるはずもなかった。奇跡は起こるが限界を超えた時にしか現れない、掴もうとしては掴めない蜃気楼のようなものだ。

今回、そんな宝くじが当たるような祈りをどんな有名な神社でお賽銭を積んだとしても、瘦せ細り苦痛に顔を歪める妻をそんなチャレンジに賭ける事は、夫として言い訳を作るようなもんだな。と、選択肢から消した。今までも今後も私には何も出来ないし、今ここで苦痛を取り去ってもらい、介護としてのベストを依頼する事しかない。私は無力だ。だったらそれを正直に表す事が妻への礼儀だろうと感じたからだ。


ガラスの扉一枚を隔てた向こう側、緩和ケア病棟に入院する。
片道切符の旅に出る。ふたりでそれに乗る。家族もいるから5人だけど、その旅はいつまで続くのかは誰も知らないし、誰にも知られたくもない。でもここでウチは旅をしよう。

下見では新設ですっきりとした空間、案外居心地は良さそうだったが、やっぱり家族が集まれば子供が中心。普段の言い争いや家ではない不都合さや、家計への負担やら、役所の手続き書類やら、患者本人に掛ける迷惑な時間は案外多かった。
家族以外(妻の末の妹だけはよく気が付くので介護で通ってくれた)は面会させるつもりもなかったので、余計に家族はギクシャクした。これで妻が元気なら、大ゲンカになるような毎日。看護師の人たちのお世話や医師の診察などがそれを適度に遮断してくれたが、先行きは雲行きが怪しそうな大海への旅だった。

緩和ケア病棟で何をしていたのか?
それはいつも通りの生活だった。病室の個室が全て。だから子供の宿題も昼ご飯も居眠りも全部妻と一緒だった。痛いから触れない事以外は全くいつも通り。
あらかじめ言っておけば、妻が病気になり初めて家事を受け持ち、銀行のハンコも預かった。市役所の障害者手続きや年金事務所へも初めて行ったほどの超初心者。独身時代にも自炊はした事もなく、自宅でやるすべての事を病床の妻のメモから習った。
大学・特別支援学校・高校と、3人の子供たちの毎日の生活を依頼され、それだけでアップアップな状態で、炊事洗濯が休みなくある主婦の日常にいまさらながら「凄い事だなあ」と必死に追い立てられる日々に過ごしていた。

ここで過ごしたのはたった2週間。通ったのは10回もなく、その中で長女の成人式(成人式の写真の前撮りがあった為)を祝った。食べられないケーキを切り、舐めさせた。入院当初は個室の利便性もあり本人も一安心があったが、みるみる変わる病状に驚きが隠せなかった。
乳がんが上半身を蛇が巻き付くように締め付けてくる。本人から【面会謝絶】を言われ3日ほど会えなかった。よほどの高熱や痛み、苦しみだったのだろう。会った時は何も言わずいつものような会話をしたが、立ち会い出産の時でさえ気丈だった妻が「会わない」と言ったのだから、意味する辛さは想像も出来ない。

痛み用のパッチでカバーする反面、かなり意識も薄らぐようでうつらうつらする時間も増えてきた。自宅に帰る帰らないという段階から、いつまでこうしているのか、いつ病状変化があるのか、ここでの生活が主体となり、メールの内容は妻のお世話と子供たちのお世話、妻の会社への配慮や妻の母への配慮、とにかく注文は日に日に増え、メール交換は一日数回と頻繁になった。

日中は仕事で来られないので、夜間のわずかな面会が続いていたが、病院からの連絡で医師面談の催促に応じて面談すると、思わぬ発言に言葉を無くした。【余命宣告】それもこの夏はもたないと言う。
いまを最高な状態としてこれから坂を下り続ける。妻も聞きたいと言うので、本人を前に医師は言った。
妻が死ぬ。『怖くて病気の方が逃げていく』そんな妻は出産と盲腸以外では家を空けた事もなく、最初の乳がん手術もなんなくこなしてきた。

3日間考えた末、20才を筆頭とする子供達に夕食が終わったあと、余命宣告を伝えた。3人は3日泣き続けたあと、ママの写真を全部出してと言い、押入れからママのアルバムをひっくり返した。子供達は徹夜でそれをコラージュして病室に飾った。妻は大喜びし、それからは病室が家のリビングになった。

危篤の連絡が入ったのはそれから1週間しか経たない早朝だった。
駆けつけると既に意識はなく、酸素吸入器をつけた状態。
「延命治療はするな」ときつく言われていたこと、それを医師にも伝えていたので、あとは自力呼吸がどこまで続くかだった。
初めてここで親族を呼んだ。妻の姉妹家族と義母だった。精一杯生きた妻に私たち家族は、一人ひとりお礼を言い、別れを告げた。早朝5時からの生きる闘いは格闘の末16時間後の夜9時前で終わりを告げた。


たくさんの繋がれた管を外した妻はやっと穏やかないつもの寝顔になり、あれだけパンパンに膨らんでいた腕の浮腫もおさまっていった。呼吸をしていない以外はいつもの妻の寝顔で、当然まだ体温もあり、「さあ、お家に帰るからクルマ出して!」起きてそう言い出しそうだった。

妻の入院を通じて、吉川中央病院緩和ケア病棟のスタッフには最大限のご尽力をいただいた。最初に書いた科学的医療ではなく、エモーショナルな医療。そう【お金で買えない価値】の提供。
目に見えないメンタル面での医療行為・緩和ケアでは毎日の事かもしれないが、決して簡単にできることではない。各家庭みんな事情は違うしおとなしい家族ばかりではないはずだ。緩和ケアとしての覚悟を持って対応しているなと感じた。

妻は我が家にとっては欠くことの出来ない一家の中心。空いた穴は限りなく大きい。それからの1年は時間が止まり、やる気も起きずに今ふうに言えば【ママ・ロス】状態だった。レポートにする理由はひとつ、この一例が次の人に生かされるからだ。日進月歩の医療は、ロス(失われた人たちの治療データ)で培われ、厚生労働省の標準データとして活用される。

56才女性乳がんステージ3B3年目に再発により乳がんを起因とする合併症による呼吸不全と記録されるのかもしれない。

女性の尊厳の乳房(全摘出ではなく乳頭は残した)を失った。
経理のプロとして、テンキーを叩く右腕の機能を失った。
妻の最大の歓び、それはおいしいものを食べること。それを奪われた。
「子供たちが成人したら旅行に行くんだよ、いろんなところにね。」という希望を奪われた。24時間疼痛という苦痛を背負いながらも悲鳴すら上げなかった。人生を全力で最期まで闘い続けた妻を私たち家族は尊敬し、またクオリティオブライフを実践した吉川中央病院を称えたい。

 QOLを求めるなら、患者と家族が持てる情報すべてを表さなければそれは出来ない。情報をギブする事でケアのテイクを期待する。いわゆる当たり前を当たり前にやる事でしかないからだ。
 次章は病気そのものの学習について患者側の立場でレポートしてみた。